イベント&レポート

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障害児との出会いをきっかけに、りょういく サイトを立ち上げました。[Vol.1]

障害をもつ子ども達と、
たくさんの時間を過ごした。
その経験がなければ、
社会起業なんて考えもしなかったと思う。 Vol.1

重光喬之 (NPO法人両育わーるど理事長)

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 障害をもつ子ども達が放課後に過ごす、療育施設。そこには、ボランティアとして関わる人たちがいる。ボランティアと聞くと、なにかをしてあげることだと思いがちだ。でも実際は、支援する側も人間として学び、大きく成長することが多い。「りょういくレポート」では、ボランティアを通して成長する人々の姿にスポットを当てて紹介する。
 第一回目は、NPO法人両育わーるどの代表、重光喬之。この「りょういく」サイトを立ち上げた彼も、ボランティア通して変化した人間のひとりだ。大学卒業後、プロのミュージシャンを目指すが挫折。就職し、ようやく仕事に慣れた頃、待ち受けていたのは脳脊髄液減少症(のうせきずいえきげんしょうしょう)という病だった。
 その間、ずっと重光の人生とともにあった療育施設でのボランティアを通して、社会起業へと向かった半生について話を聞いた。

 ボランティアって、なんだか偽善ぽいなと思ってた。

「はじめてボランティアに行ったのは、19歳の時。小学5年生のダウン症の女の子とペアになったけど、どう接していいかまったく分かりませんでした」。
五月晴れのとても暑い日だった。音楽仲間から誘われて参加したものの、子ども達とうまく会話ができず四苦八苦。すると、長髪だった重光のヘアピンを女の子がおもしろがって取った。女の子が何度も取ったり付けたりするうちに少しずつコミュニケーションが取れるようになったことを今も鮮明に覚えていると言う。
「それまで、ボランティアってなんだか偽善っぽいなと思ってました。誘われたときも面倒だなって。一回くらい行ってみてもいいかなと参加したら、一日がものすごく長く感じてどっと疲れました」。
「でも、悪い印象はありませんでした。この、はじめて触れる場はなんだろうって。施設の大人たちが子どもと真摯に向き合っているのを見て、すごくいいなと思ったんです。ただ厳しくするのではなく信頼関係を築き、その上で寄り添ったり向き合ったり。こんなにも真剣に誰かと関わることってめったにないと思いました」。
2回、3回とボランティアに参加するが、やはり行くたびにぐったりするほど疲れてしまう。それなのになぜ通い続けたのか。
「1〜2年はずっとしんどくて。でも、ここで辞めたら逃げたことになると思ったし、まだ自分の中で答えが出てなかったから続けていました」。
その後、月に1〜2回のペースでボランティアを続けていたある日のこと。子ども達と一緒にいる時の自分は自然だな、ラクだなと感じる瞬間があったと言う。
「最初は子ども達とどう接していいか分からなくて。頭の中でいろいろ考えてトライアンドエラーを繰り返していました。ある時、難しいことを考えなくていいのだと気づいたんです。たとえば登山なら、目的地まで歩ききるとかみんなと一緒に行動することが大事だと思い込んでいました。結果が大事だと。でも本当は、そのために努力したとか向き合えたという過程が一番大切なんだと気づいたんです。今思えば、他者との信頼関係について肌で感じていたのかもしれません。」

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音楽を諦めて就職。仕事に慣れた頃、病気が発覚した。

16歳の時、ラジオでイギリスのエレクトロニックミュージックグループUNDERWORLDの曲を聞いた。「なんて格好いいんだろう。自分もこんな曲をつくってみたい」とバンドを結成。大学に入ると音楽ユニットを組み、以来16年ほど活動を続けてきた。一時はプロを目指し、大学卒業後しばらくは音楽イベントの運営に全力を注いだ。
「曲をつくりながらイベント運営などもすべて自分でやっていたのですごく大変だった。曲づくりは絶対に妥協したくないし。でも、そこまで苦労しても対価はほとんど得られない。だんだん楽しくなくなってしまって。音楽はお金を稼ぐものではなく楽しむものにしようと決めて、就職することにしました。その頃もボランティアを続けていて、施設で手伝ってくれないかと誘われたけど断りました。教育実習の経験から、人に関わる仕事は素敵な職業だと思っていたけど、人生を捧げる覚悟はありませんでした。大変さも身に染みるほど分かっていましたから」。
その後、パソコンで作曲していた経験を活かしてIT業界で就職活動をはじめた。当時、IT業界は伸び盛りの業界だったためすぐに仕事は見つかった。7人の部署に配属されたが上司とメンバーが揉めて重光以外のメンバーはみんな異動してしまった。
「上司はコミュニケーションが苦手なタイプ。いつも周囲と衝突していました。ひとり残って苦労したけど、なんとか上司とやりとりしていたんです。『どうやったらあの上司とうまくやっていけるの?』なんて聞かれたこともありました」。
「向き合ってぶつかる。誰かと本気でやりとりするならそれしかないですよね。一度、上司の言動にカチンときて、翌日、丸坊主にして出社したことがありました。とことん戦ってやろうと気合いを入れたんです。社会人なのに坊主ってありえないですよね(笑)。若気の至りでした」。
元来の負けず嫌いの性格も手伝って重光はどんどん仕事を覚えていった。ところが入社から1年くらい経った頃、脳脊髄液減少症という病気が判明した。激しい痛みが伴い休職。治療をしても痛みは改善せず、退社を余儀なくされる。

再就職。やりがいのある仕事に打ち込むが、痛みは増していく。

2年間、治療のため寝たきりに近い生活が続いた。脳脊髄液減少症の多くは、交通事故等のむち打ち症が原因だ。重光がこの病気を患った理由は、いまだに分からない。昔から痛みがあり、悪化したため検査をしたら、病気だと宣告されたのだ。
28歳で再就職。痛みがなくなったわけではない。休んでいても良くならないので、痛みと付き合いながらやれるところまでやってみようと決めたのだ。
「2社目の仕事はシステムエンジニア。社長のビジョンと公正で前向きな人間性に惹かれて、入社を決めました。入社早々作った稟議書が評価されて、入社3カ月目なのに社内で最も大きな仕事を任されたんです。周囲の『無理だろう』という雰囲気が、負けん気に火をつけました。絶対にやってやろうと。寝食を忘れて死ぬ気でやった結果、なんとかやり遂げることができました。昔から誉められるのは苦手。けなされる方が燃えるタイプ(笑)」。
激務の無理がたたったのか。入社から2年もすると病気が悪化し、耐えられない痛みが続くようになる。ストレスでごっそりと髪が抜け、これ以上は続けられないと会社を去った。
脳脊髄液減少症は、髄液が漏れて減少することにより、全身の痛み、頭痛やめまい、耳鳴り、倦怠といった症状が現れる。重光は、ブラッドパッチ治療によって髄液の漏れが止まった後も、ひどい痛みが治まらなかった。この病気を患った人の一部は恒常的に痛みが続き、現在の医療では、薬で痛みを和らげる以外の治療法が見つかっていない。

 

つづく・・・

 

 

 

2013/7/1 Text : 界外亜由美