【217ページ】 ##私にとって、難病者にとって、働くということ 全国心臓病の子どもを守る会・元自治体職員 斉藤 幸枝 「働くとは傍を楽にすること」と言われています。家族のため、地域のため、誰かのためになっているとの実感は、ヒトを元気にし、生きる力を与えてくれます。 難病者も障害者も、「私支える人、あなた支えられる人」ではなく、それぞれが持てる力を社会に還元し合い、互いに支え合うことで、ひとり一人が尊重される共生社会の実現に繋がり、生きやすくなると信じています。   ###心臓病の子どもを授かって 一人息子は心臓に障害を持って生まれました。今は成人し、就労していますが、4歳の時に手術を受けるまではゆっくり、ゆったりの生活でした。術後は普通の子どもたちと走り回れるようになりましたが、手術当時の1980年代は心臓手術の成績も今とは異なり、息子と同じ日に手術をした3人のうち、1人は病室に戻ってきませんでした。 また、基準看護を返上していた病院でしたので、私は付き添いのために病室に寝泊まりし、昼間は他の人に託し、朝食を食べさせ、職場に直行していました。 おかげで心臓病児を授かっていなかったら、知りえなかった多くのことを学ぶことができました。患者会活動への参加もそうです。幼稚園入園や小学校入学に難色を示された、医師の診断書を提示しても体育や修学旅行等への参加は難しく、良くて親の付き添いあっての参加と言われた、等々、病児の親たちの話を聴くたびに、行政で働く自分のすべきことは何かを考えさせられる日々でした。   ###私の生い立ちと女性の働く 私の故郷は群馬県、冬になると赤城おろしが吹く空っ風の中で育ちました。かかあ天下でも有名ですが、一説では働き者のかかあを世の夫たちが寄り合いの席で「家のかかあはこのあたり(田下:でんか)一帯で一番の働き者」と自慢しあったことから始まったとか。産業は養蚕と農業、専業主婦は少なく、女性の働く姿を見ながら育ちました。 高校は隣の町にある女子高校へ。当時の群馬県立高校は男女別学。別学であったがゆえに生徒会長も女性、他の行事の企画や設営も全部生徒たち(女性)が決めていましたので、当時は一般的だった男性に頼ることより、高校のモットーであった自主性を重んじ、自分で決めていくという習性を私も自然と培ったものと思います。 人生を自分で決めていくことや、職を持つのが当然ということも同様でした。 医療系の専門学校卒業後、東京の製薬会社に入社しました。研究補助の仕事は興味深いものでしたが、男女雇用機会均等法成立前の民間会社は、当たり前のごとく雇用面に男女の格差があり、将来の自分像を描けず、8年間勤務後地方公務員に「とらば~ゆ」しました。 心臓病の子どもが生まれたのはその2年後でした。私の生活は一変し、情報を求めて患者会に入り、情報を集めまわりました。   ###患者会での活動 入会した心臓病の子どもを持つ親で構成されていた患者会は、全国都道府県を基本に約50の支部、約5,000家族の会員がいました。1968年に結成されたこの会は、検討部会や役員構成等がしっかりできていて、患者会の活動のしかたを学びました。 医師や看護師、保育士を連れた夏の療育キャンプ、走れない子も参加できる春のスポーツキャンプ等行事を企画運営し、多くの病児たちとかかわることができました。特に東京都に要望書を持っての交渉は、23区の末端行政に勤務していた私には、研修以上に仕事上も役に立ちました。   ###1年後に会員調査名簿から消えたこどもたち 会員の疾患別調査を2年続けて行った時のことです。1年後の調査では数人の病児が生存者の名簿から消えているのに気付きました。手術法のない病児や、術後の状態が悪く、生き続けることの叶わなかった病児たちでした。心臓移植でしか救えない重度の難病である子どもも含まれていました。1997年に施行された最初の臓器移植法は小さな子どもにとっては臓器移植を禁止すると言う法でしたので、多額の募金を集めての渡航移植にすがるか、国内で生を全うするしかありませんでした。その後臓器移植法は改正され、国内での移植は可能となりましたが、あまりに少ない移植例数に、まだ多くの移植対象の子どもたちは命を落としています。 生まれた国が日本であったがゆえに助からないというあきらめをしなくて済むよう、活動を今でも続けています。   ###学んだ専門性や技術を生かしたい 医療、教育が一段落すると、親の関心は就労に向かい、一人で生きていける力を身に付けさせたい、体力をそう使わずとも働ける職業に就かせたいと願います。病児たちからも、専門学校や技術系の大学を目指した、という話をよく耳にします。 しかしながら、せっかく学んだ専門性も、公務員試験の障害者採用の業務内容は一般事務であり、専門職への門戸はほとんど開かれていません。障害者手帳取得の厳しさから、手帳の取得できない難病者や指定難病の対象にならない難病者も多く、一般採用で就職し、体調不良となり退職する人の話もよく聞かれます。 ###福祉サービスだけでは難病者の社会参加は難しい 難病者が働かなくても済むように、社会保障を充実すべきと主張する声もあります。病気は辛く、働くうえで多くの制約があり、社会保障の充実はもちろん必要ですが、それだけでは尊厳を持って暮らすことは難しいものです。社会に貢献できるものがあり、報酬が得られることは、何より、自分自身に自信を与え、生きる力を与えてくれるからです。その必要条件の代表的な一つが就労であると私は考えています。 ITの進化や在宅勤務の普及により、働き方や職業選択の幅も広がりました。近年の働き手不足も加わり、難病者の就労環境も、少しずつですが前進の可能性を感じます。   ###難病者の働くが、就労のありようを変える 一昔前のことですが、「私つくる人、僕食べる人」と性別役割分業意識そのままのコマーシャルがありました。このところ話題になっている、103万円の壁も扶養されるのが当然という女性の地位と働き方のありようが見え隠れし、「はて?」と思う気持ちを抑えることができません。それでも、女性の就労を否定するような発言は減り、働き方や待遇はまちまちですが、女性の就労は一般的となりました。   次は難病者の門戸を広げ、多様な働き方をつくる番です。特に難病者には病状に波のある人が多く、柔軟性のある勤務体制が求められます。山梨県では難病者の別枠採用が始まりました。国も障害者雇用率の対象となる障害者の枠組みの検討をはじめ、自治体等公的機関での動きも出てきそうです。 就労の在り方が大きく変わる時代に、少しでも拍車をかける場にいられることの喜びをかみしめて前に進んでいきたいと思います。 難病者の働くが社会の働くを変える、と信じて。 ###PROFILE さいとう ゆきえ:1948年生まれ、群馬県出身。 職業経験:製薬会社の研究所での研究補助を経て、東京23区の区役所に定年まで勤務。総務、福祉、保健、教育等に従事。難病関係の活動:全国心臓病の子どもを守る会に所属し、日本難病疾病団体協議会の役員、厚労省の障害者部会の委員も務め、現在は難病者の社会参加を考える会に参加 〔写真:寄稿者の写真〕