【189ページ】 ##Episode-4 大好きだった祖父と、破天荒気味の父(木野 ゆりか) 大好きだった祖父と、ちょっと破天荒気味な父の話を書いてみようと思います。 祖父は幼いころにポリオにかかり、右手が使えなくなった。肩から下が動かないため、子供っぽい表現をするならば、おじいちゃんの右手はぶらんとしていた。私にとって、祖父が左手しか使えないのは当たり前のことだった。子どもの私から見ても、特に不自由に感じている様子はなかった。名古屋駅の近くで、今で言うところのビジネスホテルのような小さな旅館を営んでおり、部屋数は3つほど。祖父が経営と経理を担当し、祖母が料理と掃除をしていた。私が左利きなのは、祖父からの遺伝だと思っていた。なぜならば、私と祖父が缶切りで缶を開けるときのやり方がほかの人と違い、祖父と私が、全く一緒だったからである(左利きで、缶切りを使うときにはそうするしかないのかもしれないが・・・)。   私が5歳の時、母と電話中に父方の祖母がくも膜下出血で倒れ、救急車で運ばれた。病院に着くと、祖母は口から泡を吹いており、緊急手術が必要となり、名古屋では有名な大きな総合病院にさらに搬送された。手術後、集中治療室に子供は入れず、一つ下の妹と面会室で待つのが日課となった。そのとき、病院の待合室に置いてある豊富な女性週刊誌やゴシップ雑誌を読むことが日課となり、芸能ゴシップ好きの私の原点となった。その後、父母が病院に行っている間は母方の祖母に預けられることとなった。5歳にして待合室に置いてある絵本ではなく、過激な雑誌ばかり読んでいることがバレたためかもしれないと思っている。   そこでは、はとこのお姉さんやおばさんと一緒に過ごし、来客があると祖母の状態や手術のことを詳しく話すことができた私は、周りの大人たちからとても褒められた。それが私の医療従事者を目指すきっかけの一つだったかもしれない(今思うと、繰り返し聞いていたので、インコとかがお話できるのと同じだと思う)。   祖母の介護が必要になったが、祖父が介護をしているのは私たち家族にとって当たり前のことで、特に祖父が大変そうだとは思っていなかった。母も手伝っていたと記憶しているが、メインは祖父だった。名古屋では祖父母と同居して介護することが難しく、旅館をたたみ、岐阜に引っ越すこととなった。   家選びでも、車庫から車いすで上がれるスロープを作ったり、庭から部屋に車椅子で上がれるように簡易のスロープを設置した。しかし、当時6歳の私にとっては滑り台代わりであり、ローラースケートで滑り降りるためのものだった。   週末の休みの時は、病院に通うのが家族の習慣になっていた。祖母は入退院を繰り返したが、ずっと祖父が介護をしており、それが当たり前だった。   祖父は初孫である私をとてもかわいがってくれた。本であればなんでも買ってくれた、勉強好きに育ってほしかったそうだ。私が中学一年の頃、学校の雰囲気が嫌で自主的に休校していたときも、ずっと祖父の部屋で過ごしていた(のちに「中一の壁」とか「不登校」という言葉ができる)。私が学校に行けるように、祖父は様々なモノで私を釣ってやる気にさせようとしてくれた(モノで釣ろうとするところが私の性格を把握している祖父ならではだと思う。その後その作戦は成功し、中学2年から学校に通い、生徒会から部活の部長までするようになる)。高校に入学して、毎日の復習で手一杯で、予習に手が回らなかった1年生の頃には、英語の文法の授業の予習の英単語の訳を英語の得意な祖父に教科書にそのまま書いてもらっていた。 〔写真:中学生のとき祖父とお出かけの際の一コマ〕    父も、肝炎、バセドウ病、糖尿病、線維筋痛症と次々に疾患が発覚し、仕事を続けながら治療を継続していた。線維筋痛症と診断されるまで時間がかかり、疲れやすかったり、痛みを訴えたり、原因がわからず、父自身だけでなく、母も大変そうだった。バイオリズムというか、痛みの周期のようなものがあった気がした。私が高校一年になるときに、父は当時の仕事の継続ができなくなり、退職を余儀なくされて、家で過ごす時間が増えた。多趣味な父は趣味に没頭すると痛みを忘れられるとよく言っていた。   絵を描いたり、紙飛行機を空で旋回するくらいのものを作ったり、パチンコをしたり、釣りをしたり、買い物をしたり、父は痛みを紛らわす術を見つけるために、痛みと闘いながら様々なことを試していた。今思うと、ドパミンが放出されやすい、嗜癖に類する行為を好んで行っていたと思う。お風呂に入ると痛みが取れると言っていた。特に水に浮いていると楽だと言っていた。そのためか、父はとても長風呂だった。当時はインターネットなどはなく、気を許した友達との交流しかしなかった父は同じ疾患の患者さんと知り合うこともなく、家族も先生からもらった医学書のコピーくらいしか線維筋痛症のことを知らなかったのが現実だった。   父は障害年金をもらい、母がキャディーさんとしてゴルフ場で働いて、私と妹を育ててくれた。岐阜にはゴルフ場がたくさんあり、専業主婦からでもすぐに就職できた。父の浪費癖もあり、あまり裕福な家庭ではなかったので、地元のいわゆる進学校と呼ばれる高校に入学した際に、父母から「自分たちは高校までで社会に出たので、大学に進学できる子どもになるとは思わなかったため、大学の進学費用を用意していない。今後の進学費用は奨学金などで賄って欲しい」と告げられた。   公立大学に進学したため、世帯年収が基準値以下であり、成績がまあまあの学生は授業料が減免となった。私が大学2年生のときに、妹が短大を卒業して働き始めて世帯年収が上がってしまい、減免額が減ってしまった時期もあったが、同様の家庭が複数あり、大学に訴えたところ、年少の家族の収入は計算されなくなり、大学院まで進学することができて事なきを得た。   もともと完璧主義の父であったため、私たちが何かミスをすることを極度に嫌った。痛みのせいか、次第に怒りっぽくなることがあり、父の機嫌を損ねないようにすることが家で平穏に過ごすコツだった。大学受験に失敗した際に私は予備校生活を送っていたが、夏休みの時期に、先に大学に合格して関東で一人暮らしをしていた同級生が地元に帰ってきて、その子の実家でご家族と私で徹夜でマージャンをしていた。連絡済みではあったが、朝帰ると父に激怒され、痛みのせいで怒りっぽくなっているから仕方ないと思い、素直に怒られて謝ったが、今考えてみると、大学受験に失敗して予備校に通っていながら朝まで麻雀して遊んでいるというのは、普通に考えて怒られて当然だったのかもしれない。   このような家庭の状況であったので、私が大学進学の際に医療系の学部を選択したのはごくごく自然のことだった。大学時代は実家から通っていたため、父から家に家賃と食費を数万円(大学生の子どもに請求するには多額なのでここでは数万円という表現に留めておきたい)入れるようにと告げられた。入れられない場合は、私が6歳の頃に欲しいといって買ってもらった柴犬がどうなるかわからないと半ば脅しのようなコメントもあった。奨学金だけでは足りない額と自分が遊ぶ費用を捻出するために、アルバイト三昧だった。当時、薬学部は4年間で(今は6年間)、国家試験を受験して薬剤師の資格も取得できたので、大学院5年間は薬剤師として薬局で働くことができた。実際の自分のスキルアップとバイトが両立できるという良い環境だった。のちに、家賃として請求されていたお金は、父のパチンコ代になっていることがわかったり、父が欲しいからとゴールデンリトリバーを飼い始めたりする資金となる。大学院修了時点で私の奨学金の額(=返さなくてはいけない借金)は1000万円近くなったが、その後私が家を買った際にローンが多すぎて、おまけ程度に感じて楽になった。   父の痛みがひどい時には、私が休みの日でアルバイトから帰ってきた際には母と一緒に父のマッサージをすることが日課となっていた。母と雑談をしながら、父のふくらはぎや背中を揉みほぐし、少しでも父の痛みを和らげようと努めた。父も母もその時いつも、私たちが子供の頃の話や、自分たちの高校時代の話をしてくれた。そのひとときは、単なるマッサージの時間ではなく、家族の絆を深める大切な時間でもあった。そんな母との雑談が、痛みに耐える父を少しでも元気づけられたのではないかと思う。   父の体調には波があったが、娘の私から見ても世間一般からすると話の面白いおじさんではあったため、大学の友達が家に遊びに来た時に、なぜか父と一緒にもっと遊びたいとその後に家に泊まりに来る子も男女問わずに多くいた。私が大学時代、父は紙飛行機に凝っており、全日本紙飛行機連盟に所属し、大会などにも出場していたため、飛行機の調整をしてくれて、家の近くの広い公園(といっても、車で10分くらいで、なにもない芝生の土地)でみんなで飛ばして滞空時間を競争していた。父は私の友達が家に遊びにくるとテンションがあがり、痛みも減るようだったが、そのあとのより戻しというか、その時に頑張ったツケがあとから押し寄せて、数日間痛みで横になっているというような体調だった。   痛みで夜寝れないというのが父の疾患の中で一番つらそうなことだと感じていた。途中からは、寝れないのなら起きているというスタンスで夜中に起きてテレビやビデオを見たりしていて、体が限界になって気絶するように眠るタイミングまで起きていた。その当時は線維筋痛症に適用のある薬剤はなく、薬で痛みを抑えようとすると朦朧としてしまい、やりたいことができなくなり、ちょうど痛みをコントロールすることが難しい状況だった。   私が大学で配属された研究室は痛みの研究をしており、少しでも父の症状を抑えられる薬があるといいなと思って研究していたが、メカニズム的に痛みを強く抑えようとすると、ぼーっとしてしまう副作用を分離するのが難しいことも分かってきた。会社に入ってからも挑戦していたが、企業はその時々の会社の方針や注力領域もあるので、自分の興味のある研究だけ続けることは難しいし、薬の開発には10~20年程度掛かる事が一般的なので、次第に私が会社員でいる間にその薬は世に出ないなと感じるようになった。そこで私は少し考え方を変えてみることにして、今の私は、いま手に入る薬の量や、薬の効き方で、その患者さんに合ったものを提供できるような仕組み作りや、生活の過ごし方で痛みが減るというような、予防的な対策や、患者さん同士・医療従事者を巻き込んでの自分なりの生活のコツやいろいろなサポートグッズの情報共有の場を作れたらいいなと漠然と思い、活動をしております。 ここまでだらだらと自分の人生と家族が難病だからこそ思ったこと、感じたことを勝手に書いてみました。家族が難病だからと何かを諦めてしまうことがないよう、木野よりましだと思っていただける様に、少しでも参考になればと思い、赤裸々に書いてみました。   ここまで読んでいただきありがとうございました。 ###Profile 木野ゆりか きの・ゆりか 名古屋生まれの岐阜育ち、薬剤師・博士(薬学)・公認スポーツファーマシスト・チャイルドコーチングアドバイザー、2006年から製薬会社の研究部門で勤務し、新規事業開発部門へ異動、2025年1月から転職し保険会社の新規事業に従事。