【202ページ】 ##Episode-9 難病の私が20年間働き続けてきた理由(谷田 朋美) ###障害のある人に生き延びる知恵を学んだ学齢期 15歳ごろから頭痛や倦怠感、呼吸困難感などの症状に悩まされるようになりました。精密検査で明確な異常が見つからず、「たいしたことない」などと言われたものの、私にとって診断がつかないこと自体、深刻な問題でした。というのも、周囲に調子が悪いことを証明できず、配慮を得ることが難しかったからです。勉強への集中力が続かなくなり、働くこと自体難しいのではないかと不安でしたが、学校では「よい大学、よい会社」という限られた人生モデルしか教えられず、それができないのは「甘え」という価値観が支配的で、誰にも悩みを打ち明けることができずにいました。病気であるということは、症状の苦しさはもちろん、地図もなく先の見えない世界に放り込まれることなのだと気づかされ、ひとり途方に暮れていたのです。 そんな私でしたが、高校時代に地域で自立生活をしている障害のある人たちと関わり、「福祉制度や地域のコミュニティなど、さまざまなものに頼ることで生きていける」のだと教わったことで、少し気持ちが楽になりました。大学時代はインドネシアに留学し、社会運動家らから「学生に過ぎないあなたでも、生きることが困難な人びとの現状を伝えることはできる」と教えられました。もともと人と出会うこと、書くことは好きだったこともあり、体調が悪くても、記者の仕事ならばできるのでは、と考えるようになりました。その後、大手テレビ局で海外報道に携わってきた恩師と出会い、「記者に向いている」と背中を押されたことで、将来どうなるか分からないものの、ひとまずこの流れに乗ってみようと思い至ったのです。 近年、多様性の価値が叫ばれています。しかし「良い大学、良い会社」というレールに乗る以外の生き方はまだまだ難しい社会だと感じます。学齢期から病気を患う人たちがどのようにキャリアを築いているのかというモデル、その発信が増えることで、楽になる人は少なくないと思うのです。 ###病気であることを黙って臨んだ就活 新聞記者になることに決めたものの、当時は就職氷河期時代。採用試験では、鋭さでは勝負できないと思い、これまでの人生を聞いてもらう気持ちで臨みました。ただ、病気であることは黙っていました。現実にコストや負荷がかかると見なされる時に、差別が先鋭化することを実感していたからです。 黙っていたことで何とか採用試験にパスしたものの、病気の身体で周囲の信頼を得ていくことは極めて難しいと感じました。当時、新人は「働かせても使い減りしない」かどうかで評価されるような状況にあり、入社後たちまち体調が悪化、競争からこぼれ落ちたのです。記者職で入社したものの、畑違いの部署に異動となるなどしてきました。 それでも何とか新聞社に勤めて約20年になります。正直、これほど長く働くことができるとは思っていませんでした。働き続けることができた理由は、大きく3つあると思います。   ###記者は自分の特性や興味に合った仕事だった   まずひとつは、記者の仕事が裁量労働であったこと。スケジュールや働く時間をある程度調整できるため、体調に変動のある自分には合っていました。デスクにずっと張り付いていないといけない働き方であったら、続けていくことは難しかったと思います。記者職で入社したため、基本的には記者の仕事を継続できたことも、できることが限られる難病者にとっては好都合でした。 加えて、新聞記者の仕事が単純に面白かったことも大きいです。私はもともと、病気であることを黙って入社した負い目がありました。しかし、仕事を通じてさまざまな人と出会い、「難病当事者の視点が大事」「難病患者が働いていることに励まされる」と社外の人たちから教えられました。働くこと自体、難病者を排除してきた労働市場への「抵抗」でもあるのだ、と新聞記者を続けていく力をもらったのです。 病気であることを伝えると、「単純作業をしていればよい」と短絡的に受け止められがちです。しかし実際には、個々人に合った仕事をすることが、最も大切であることは強調してもしきれません。 企業には多様な業務があり、仕事内容によっては難 病であっても働ける可能性があります。ただ、日本企業では「体力的、精神的にきつい仕事を何年か我慢してやっと希望の部署に行ける」というような、暗黙の独自ルールがあるように思います。入社当初に希望の仕事を伝えても(人気の職場であった場合は特に)「わがままだ」と一蹴されかねないのです。健常者にとって公平かもしれない競争は、難病の人にとって「排除」になりやすいです。雇用側には、難病者が働きたい部署を希望することを、甘えではなく「合理的配慮」の一環として受け止めてしてほしいと願っています。   ###本人と組織の間に入って説明できる「通訳者」の存在が支えに   ふたつ目に、調子を崩した時、医師と会社の間に入って業務の調整を担ってくれた上司に出会えたことが、働く支えになりました。 28歳の時に、脳脊髄液減少症と診断されました。病気だと認められたことで「怠けているわけではない」と自責の念は和らぎましたが、髄液の漏れを調べる検査を受けた際、身体への負荷が大きかったのか、より体調を崩してしまいました。上司が病院の診察に同行してくれ、休職したほうがよいとアドバイスされました。調子の悪い私に代わって会社への説明や休職の手続きも担ってくれたのです。 休職時だけでなく、病気だとどうしても調整が必要な業務が出てきます。私自身、「できる業務とできない業務を説明できない人間は信用されない」と言われてきました。ただ、実際には、その日の体調や仕事量によってできる、できないが変動するなど、本人にとっても業務の見極めは非常に難しいものです。社内で弱い立場にあったり、相手に知識がなかったりすると、たとえ病状などをうまく説明できたとしても、受け止めてもらえない場合もあります。 難病者が働く上では、本人にも伝えにくい症状や就労可能な業務について、ともに考え、会社との間に入って説明を担ってくれる「通訳者」の存在が不可欠だと感じています。私自身、そういう上司に恵まれた時に仕事がしやすいと感じました。 このような経験から、組織の上層部には難病についてもっと学ぶ姿勢を持ってほしいと願っています。会社組織でもDEI(ダイバーシティ、エクイティ、インクルージョン)が重視されるようになり、女性などマイノリティ対象のキャリア研修が行われるようになっています。しかし本当に必要なのは、管理職側への教育であり意識改革ではないでしょうか。   ###「理念」が大事   最後に会社の理念があります。 実は「合理的配慮」についてはあまり浸透していると感じられなかったのですが、「社会の公器である」という会社の「理念」は、全社員に浸透していると感じていました。何人かの上司や先輩に恵まれた背景にも、こうした会社の「理念」の存在があったと思います。理念では「差別をしない」とも言及されており、それは社外だけでなく社内でも同じだと考える人たちが、助けてくれたのだと。だからこそ私も、病気で困っている後輩がいれば、できることは何でもしよう、との思いでやってきました。 願わくは、そのような役割を担う人たちが組織でもっと評価されてほしい。そして、弱い人を助ける、というまなざしではなく、困難な状況を工夫しながら生きている人間、組織の働き方改革や多様性に貢献する人間として尊重してほしい、とも思います。私自身、社の理念に立ち返り、まず何より自分が働いていることが、理念の実現にかなうものだ、その先鋒なのだと自らを奮い立たせているところです。 ###Profile 谷田朋美 たにだ・ともみ 新聞記者。立命館大生存学研究所客員協力研究員。15歳から倦怠感、めまい、呼吸困難感、頭痛などさまざまな症状が24時間365日続いている。これまでに脳脊髄液減少症、慢性疲労症候群などの診断を受ける。共著に『あしたの朝、頭痛がありませんように』 (現代書館)など。 〔写真:寄稿者の写真〕