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40代女性・家族と同居 交通事故で発症 治療歴10年

車の運転中、信号待ちで止まっていたら、後ろからノーブレーキで追突されて発症しました。最初は近所の整形外科に通院していましたが、3か月経っても良くなりませんでした。友人の友人が脳脊髄液減少症だったため、運良くアドバイスをいただき、専門医に紹介状を書いてもらい、診断されました。

痛みのあまり5年間寝たきりで、親の車かタクシーの後部座席で横になって通院し、鍼灸整骨院ではマッサージと鍼治療を受けていました。BPは5回(毎回 首、腰、2ヶ所)受けました。

5回目のBPから一時的に体調が上向きになったので、まずは近所のジムで体力をつけてから、仕事に就くことにしました。いきなり働くのは不安があったので、登録制の日雇い派遣会社で体調の良い時だけお仕事をして、働くことに自信をつけるようにしました。

自信がついたら、派遣でコールセンターの仕事に就きました。瞬時の判断が大切で、間違いは許されない業務でしたので、手元に自作のマニュアルやノートを置き、パソコンの周りは付箋だらけでした。業務にも慣れた頃、扶養内からフルタイムに切り替えて勤務したのですが、案の定、頭痛や首から背中・腰の痛みなどが悪化。体調を崩し、1年ほど勤務して退職となりました。

しばらく自宅で静養してから、またフルタイムの仕事に就きました。今度もコールセンターの新規立ち上げの仕事で、非常にやり甲斐があったのですが、新人の研修担当になるなど、責任が重い業務でした。1年半程でやはり体調が悪化し、1カ月休職しましたが、頭も身体もついて来ず、退職を余儀なくされました。 少し休憩したらまた働こうと思っていましたが、体調が思わしくなく、気付けば3年間無職で現在に至ります。

5年間寝たきりの間はひどい抑うつ状態で、毎日大量の睡眠薬を飲んでも、痛みでせいぜい3〜4時間しか眠れない日々でした。もちろん、「死」は常に私の脳裏にありました。幸い私は友人関係に恵まれていたので、自宅までお見舞いに来てもらったり、電話で辛い気持ちを伝えたりして、なんとか自分を保とうとしました。

父は病名が分かるまで、ムチウチなのに大げさだと言っていましたが、診断されてからは、家族も病気を受け入れて私の体調優先の生活をしてくれました。夜中に希死念慮に襲われたときには、泣きながら母を起こして話を聞いてもらうなど、特に母には感謝しています。

事故に遭う前からお付き合いしていた人とは、脳脊髄液減少症になっていなければ、恐らく結婚していましたが、体調が良くなって働き出してから、色々あってお別れしてしまいました。その後もお付き合いした人はいましたが、やはり私の体調が原因で、結婚には至りませんでした。

子供が大好きなので、出産をしない人生なんて想像もしていませんでしたが、30代前半という結婚・出産を一番考える時期に発症したせいで、悲しいことに諦めざるを得ない年齢が近づいています。

今は体調と物忘れが激しい脳を何とかして、また短時間勤務の仕事から始めたいと考えています。

治療歴:BP5回、食塩水点滴5年、鍼とマッサージ治療
服用中:ロキソニン、ムコスタ、レクサプロ、リフレックス、セロクエル、ユーロジン、マイスリー